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生きることに喜びを感じられない。
なんにも楽しくない。
存在するだけで重圧を感じる。
でも誰にも大事にされないのもとてもつらいし。
つかれた。
どっちに転んでも私は無理なのだ。
かといって死ぬのも無理だから、
自分にとっての楽しい生き方を模索していくしかないのだ。。
なんなんだろう。
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私のここへの投稿はかなりバースト的だ。
おそらくそういうサイクルなのだろう。
ひどく虚しさを感じて何も手がつかずここに書きなぐることだけがなんとなく魂の癒しになる期間と、別にそこまで虚しさを感じない期間が、交互に割と定期的にやってくるのだろう。
いくつかの人格が一定期間ずつを経て周期的に現れるのだとしたら、
人格Aの自分は、数十日前の人格Aだった自分にセイハローすると、「ああそうだった、そんな感じだったんだ、なんか思い出したかも」という具合に自分の考えを思い出すことができる。
それがこの誰に見せることも目的としていないブログの役割なのだと思う。
一貫性のない自分。
行き当たりばったりさん。
人は他人に一貫性を求める。
一貫性のない人間だっているのですよ。
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人生。
おそらくわたしは自分の内面に深く注目しすぎている。
もっと外に向けないとだめなのである。
と言われてもやっぱり注目しがちなのである。
運動すれば治るんだろうか。
ひとりって虚しいよね。
なんで虚しいんだろ。
進化の過程でそういう虚しさを感じる性質が有利に働いて残ったのだろうか。
ああああ、むなしい。
孤立したら虚しさを感じれば、孤立しないようにがんばる。のか?
孤立により虚しさを感じれば、虚しさのみに(この現在の私のように)注目するようになり、虚しさの虜になり、子孫を残さず死ぬ。
社会的に孤立しやすい性質を持った人間は、子孫を残さない。
…そうすると?
ああ、風桶理論だ。
ひとり旅、よくやってたけど、なんか最近は虚しくなっちゃった。
結局、ひとり旅で行った先の経験は、自分の世界に対する"認識"の変化を楽しむだけに終わるからだ。
知り合いも一緒ならば、それは世界との"関係性"の変化になる。
一方向だけではないからだ。
旅先では私は本当に透明人間のように過ごす。
本当に透明になれる。
私が世界へなにかしらの変化を起こすことはなく、世界が私へ変化を起こすだけ。
(ただしここでは世界とは私以外のほとんどすべてのもの、を指す。もちろん電車で私が椅子へ座れば、凹むという変化が起きるだろう。)
そういうことなのだ。
私がなにか行動するということが、なにかしらの周囲の変化に繋がると、少し嬉しい気分になるのかもしれない。
何をやっても自分の中の変化しか起こらないというのが、とても虚しさを誘うのかもしれない。
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透明人間、
それは私が最も望んでいた生き方。
しかし、透明人間になればなるほど、どんどん存在理由を感じられなくなって、虚無感に2時間も3時間も悩まされ、何も手がつかなくなり、ますます中身のない透明人間になる、透明人間ループに陥るのである。
僕は。。
友達ってなんだろう。
私は何が欲しいんだ。
自分を認めてくれる人が欲しいのか?
何をして生きたいのか、私は?
別に生きたくないんだよな。
別に。
でも死にたくもない。
消えたいけど、死にたくない。
そういうことなんだよ。
本当に消えたいんだよ。
でも物理的に存在してしまっている限り、物理的に存在してるのに誰からも相手にされないってどうなんだ、って感じるから虚しくなるのかもしれない。
物理的に存在しないのなら、誰にも相手にされないのが当たり前って思うもんなぁ。
つまり社会通念にやられているということなんだろうか。
何をしたいんだろう。
虚しい。虚しい。虚しい虚しい虚しい虚しい虚しい虚しい虚しい虚しい虚しい虚しい虚しい虚しい虚しい虚しい虚しい虚しい虚しい虚しい虚しい虚しい虚しい虚しい虚しい虚しい虚しい虚しい虚しい虚しい。
友達いなくても、物を死ぬほど愛せる人に生まれたかった。
石ころとか虫とか電車とか。
オタク。
別になんも好きじゃないし。
自然は好きだけど。
これ好きっていうのかな。
ああ虚しい。友達いない。
さみしい。
なんも楽しくない。