死にたい気持ちをあらゆる方法で表現するブログです。

断続的に死にたいので、いつ衝動的に死ぬかもわからないし、遺書を早めに書こうとは思うのですよ。

ですがなにを書けばいいのかわからない。

自分の人生について語ろうとすると、ネガティブな自分否定ばっかになるの必至だし。


ねむいからとりあえず寝よう。

続きは明日に考えよう。

生きるのが無理すぎる。

生まれつき生きづらさが生じやすい気質だったとしても、頭が良ければここまで死にたくなることはないだろう。

今まで偏差値の高い人たちの周りに囲まれてこられたのは、超わかりやすい塾のカリキュラムと、自身の中途半端なパターン認識力が多少うまく働いただけのことであって、私が周りの人たちと付き合うに値するかというと、全力でNOなのである。


偏差値の高い人に限らない。

世の全ての人だ。


彼らの頭は私には全くもって想像がつかないほど思考を続けていらっしゃる。

私には到底その速さには追いつくことができない。


私のこの非力なパターン認識力は、正解を与えられてしか動くことができない。

他人との優位性がまるで何もない。

存在価値がまるでないのだ。

誰が私の死にたい気持ちに興味を持つかという問題である。

太宰治の死にたい気持ちは、なんとなく興味が湧く。

私の場合はどうか?


早く死にたい。

何にも上手くできない。

人と喋れない。

目を合わせられない。

きつい。

自殺のプロフェッショナル

T型人間にならないと、人の役には立てない時代。

私は一つのことを極めるのが非常に困難に感じているが、

自殺をすれば、その行為のみで自殺のプロフェッショナルになれる。

プロになれるのである。

これは人に役に立つ。

陳腐な内的世界

私の内的世界だけは責めて充実しているのではないかと思っていた、

世界を美しいと思える心だけは、許せ得るものだと思っていた、

しかし、

この内的世界をいざ文章に書き起こそうとするとどうだろうか?

なんと稚拙でつまらない陳腐な感受性なのだ!!!と、

絶望するのである。


「つまらない人間」は、どこまでいっても「つまらない人間」のままで終わり、

後にも先にも、救われることは永遠にないのである。

内的世界は、外へ飛び出さない限り、曖昧模糊とした漠で終わり、

しかし、外へ飛び出した瞬間に、散ってそのまま崩れ去る。

私はずっと、つまらない人間だ。