死にたい気持ちをあらゆる方法で表現するブログです。

陳腐な内的世界

私の内的世界だけは責めて充実しているのではないかと思っていた、

世界を美しいと思える心だけは、許せ得るものだと思っていた、

しかし、

この内的世界をいざ文章に書き起こそうとするとどうだろうか?

なんと稚拙でつまらない陳腐な感受性なのだ!!!と、

絶望するのである。


「つまらない人間」は、どこまでいっても「つまらない人間」のままで終わり、

後にも先にも、救われることは永遠にないのである。

内的世界は、外へ飛び出さない限り、曖昧模糊とした漠で終わり、

しかし、外へ飛び出した瞬間に、散ってそのまま崩れ去る。

私はずっと、つまらない人間だ。

人と私

人間。

および、私。


私は1つの生物。

一見、正常動作をしているように見える。

気持ち悪い。


生きるのが苦しい。

自殺をしたい。

それは、結局自分の無能を隠し通したいが故なのかもしれない。


姪が21歳で自殺したことにたいして、美しいままで終わる、と表現し、その行為を坂口安吾は肯定していた。私の内心も「美しいままで終わりたい」これに近いのではないだろうか。


私は死ぬと周囲から惜しまれるのだろうか。

私の関心は常に私自身が周りからどう見られているかにある。

考えても意味のないことなのに、なぜか執拗なまでにこの1点には特に執着してしまうのだ。

人がどう行動しているか、それを見て自分の行動を決める。


他人に一度付けられた印象はなかなか変わらない。

だからなりたい自分がいない場合は、自分の中身を周囲にとりあえず隠しておくのだ。

自分の方向性が決まっていないから。


疲れてしまった。

自殺の美しさ

なぜ私は自殺をしたいのか。

それは自殺という行為の美しさによる。


私は私をどこにも見つけられず、それゆえに日常は常に苦しさを纏い、社会の一員になることに異常なまでの違和感を感じ、人との会話も碌にできず、時間だけが過ぎていく。

人々は私から去っていく。

どの人も共通である。

人々は私のあまりにもつまらなさに飽き飽きする、見向きもしなくなる、興味を持とうとしても持てなくなる、視界から消える、存在がなくなる。


私はもしかするとその状態を望んでいる。

早く死にたい。

死にたい。

2種類の死にたい気持ち

2つの自殺願望があるとおもう。あくまで自分の意見だが。

1. 消極的自殺願望
「自分に」価値がないから死のう、という気持ち
2. 積極的自殺願望
「世界に」価値がないからこれ以上生きるのは無駄だ、死のう、という気持ち

私の場合は1のときもあるが2のときもある。
ああ、疲れた。