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生きるのが無理すぎる。
生まれつき生きづらさが生じやすい気質だったとしても、頭が良ければここまで死にたくなることはないだろう。
今まで偏差値の高い人たちの周りに囲まれてこられたのは、超わかりやすい塾のカリキュラムと、自身の中途半端なパターン認識力が多少うまく働いただけのことであって、私が周りの人たちと付き合うに値するかというと、全力でNOなのである。
偏差値の高い人に限らない。
世の全ての人だ。
彼らの頭は私には全くもって想像がつかないほど思考を続けていらっしゃる。
私には到底その速さには追いつくことができない。
私のこの非力なパターン認識力は、正解を与えられてしか動くことができない。
他人との優位性がまるで何もない。
存在価値がまるでないのだ。
自殺のプロフェッショナル
T型人間にならないと、人の役には立てない時代。
私は一つのことを極めるのが非常に困難に感じているが、
自殺をすれば、その行為のみで自殺のプロフェッショナルになれる。
プロになれるのである。
これは人に役に立つ。
陳腐な内的世界
私の内的世界だけは責めて充実しているのではないかと思っていた、
世界を美しいと思える心だけは、許せ得るものだと思っていた、
しかし、
この内的世界をいざ文章に書き起こそうとするとどうだろうか?
なんと稚拙でつまらない陳腐な感受性なのだ!!!と、
絶望するのである。
「つまらない人間」は、どこまでいっても「つまらない人間」のままで終わり、
後にも先にも、救われることは永遠にないのである。
内的世界は、外へ飛び出さない限り、曖昧模糊とした漠で終わり、
しかし、外へ飛び出した瞬間に、散ってそのまま崩れ去る。
私はずっと、つまらない人間だ。
いじめと死
人と私
人間。
および、私。
私は1つの生物。
一見、正常動作をしているように見える。
気持ち悪い。
生きるのが苦しい。
自殺をしたい。
それは、結局自分の無能を隠し通したいが故なのかもしれない。
姪が21歳で自殺したことにたいして、美しいままで終わる、と表現し、その行為を坂口安吾は肯定していた。私の内心も「美しいままで終わりたい」これに近いのではないだろうか。
私は死ぬと周囲から惜しまれるのだろうか。
私の関心は常に私自身が周りからどう見られているかにある。
考えても意味のないことなのに、なぜか執拗なまでにこの1点には特に執着してしまうのだ。
人がどう行動しているか、それを見て自分の行動を決める。
他人に一度付けられた印象はなかなか変わらない。
だからなりたい自分がいない場合は、自分の中身を周囲にとりあえず隠しておくのだ。
自分の方向性が決まっていないから。
疲れてしまった。